自己紹介

“Magic Engineer!?” と言っても、決して「魔法のようにすごいプログラムを作れるエンジニア」という意味ではありません (^.^;)

「マジック(手品)」を趣味とする「エンジニア(技術者)」です 🙂

昔々、アメリカに留学していたときに、友人のマジック誌「マジックニュース」に「きみちゃんのアメリカ無茶修行」という記事を書いていたことがあるので、ブログも同じようなタイトルにしてみました (^-^;)


小学校以前:

生まれも東京、実家も東京ですが、父が転勤族だったため、3年周期くらいで京都、仙台、京都(小学校低学年)、福岡(小学校高学年)に住んでいました。1回目の京都の記憶はおぼろげ、その前は記憶がありません(まぁ、そりゃそうだな・・・)

小学校4年のとき、福岡天神の岩田屋のマジック売り場でマジックを見せてもらったのがキッカケでマジックを始めました。

中学時代:

中学以降、社会人になるまでは東京都大田区池上の実家住まいでした。

中学に入って、一番最初に始めたクラブ活動は理化学部で、どちらかというと化学少年でした。川の水を汲んできて水質の定量実験などをやっていました。

中学2年の文化祭の時、同じ趣味の仲間と立ち上げた同好会が KAISEI Amateur Magicians Club (K.A.M.C.) というマジックのクラブと放送愛好会という、BCL や DJ をやるクラブでした。K.A.M.C. は、いまだに存続している伝統のあるクラブになりました (^-^)/

放送愛好会の方では、文化放送の DJ コンテストで週間チャンピオンになったことがあります (^-^)

高校時代:

高校2年の時、物理部と掛け持ちをしていた理化学部の先輩が、物理部ではそれまで何年もレーザーを発振させようとしていたけど失敗続きだったのを諦めて市販のレーザー発信機を買ったので、これで何かできないかと誘われ、ホログラムを撮影することにしました。

自分たちで洋書を探してきて、太い角材4本にコールタールを塗って(振動を吸収させる目的)、ベニヤ板で挟んだものをトラックのタイヤチューブに乗せた防振台を作成し、ホログラムの撮影に成功しました。1976年当時、ホログラムの撮影を実行した高校生は珍しかったはずだと思います。

大学時代:

大学には奇術愛好会というクラブがあったので、部活動としてはそこに所属しましたが、高校のクラスメイトでホログラムを一緒にやった仲間に誘われて、T.S.G.(「理論化学グループ」の頭文字で、後に「平安京エイリアン」というテレビゲームを作ったことで有名になった)というクラブにも幽霊部員的に所属していました。

専攻は工学部計数工学科計測コースで、卒論は「点拡がり関数の推定による画像修復」でしたが、「画像修復」の方が主眼ではなく、ボケ画像のエッジ部分を検出して、その傾きから修復演算に必要なボケ関数を推定するということを研究していました。(今思うと「研究」というより「プログラミング」ですかね (^.^;))

ソニー時代:

ソニーには学部卒の1982年4月から、早期退職した2015年5月まで33年と2ヶ月務め、いろいろな仕事を経験しました。1990年にコンピューター系の部門に異動するまでは(もちろん間に入った留学中はアメリカ在住ですが :)、職場が厚木だったので厚木に住んでいました。ちなみに、その後は(赴任中はもちろんアメリカ在住ですが :)東京に戻りましたが、社会人として独立したので実家からは出ています 🙂

テレビ・カメラ事業本部カメラ事業部: (1982/4 – 1983/3)

最初に配属された部署は CCD カメラの設計部門でしたが、カメラ回路というよりも、単板 CCD のカラーフィルターの色配列を検討するため、いろいろなフィルター配列から作り出した画像をシミュレーションするための画像メモリーとコントロール回路(そして、コントロールプログラム)を作るような仕事でした。

半導体事業本部 CCD 事業部: (1983/4 – 1984/3)

僕がいた課だけ、カメラよりも CCD そのものに近かったため、課ごとゴッソリ半導体事業本部に異動になりました。ここでも CCD の応用開発ということで、今で言えばデジタルスチルカメラの原理試作みたいなことをしていました。

また、その時作成した原理試作の画像メモリーが基となって、PC をやっていた部門でビデオキャプチャー装置として商品化されたり、単管プロジェクターの部門から頼まれて、電子ビームの調整をするための電子ビームの形状を計測するプログラムを作成したりもしました。

情報機器事業本部カメラ事業部: (1984/4 – 1987/8)

これからは業務用、放送局用にも CCD カメラを使う時代になるということで、僕がいたグループだけがゴッソリ異動になりました。さすがに、この期間だけは「カメラの回路設計(主に CCD 周り)」もやりました (^.^;)

プライベートでは1995年のチェラティンビーチ滞在以来、ClubMed のファンになり、数多くのバカンス村を訪問しましたし、それが昂じて clubmad.com のドメインを取得してしまいました。

Caltech 留学: (1987/9 – 1988/8)

California Institute of Technology の研究室に留学させてもらい、アメリカの大学のインターネット環境に影響されて帰ってきました (^.^;)

この留学中に Pacific Coast Association of Magicians (PCAM) のコンベンションが Santa Barbara で開かれたので、ステージ部門にチャレンジし、1位をもらいました (^-^)/

また、その直後にオランダ・ハーグで開かれた FISM にもチャレンジしましたが、こちらは入賞できませんでした orz

情報機器事業本部カメラ事業部: (1988/9 – 1990/6)

帰国後は同じ職場に戻ってきましたが、放送局用フルデジタルビデオカメラ用の LSI の設計環境のため、ワークステーションを導入することになり、イントラネットの構築やワークステーション環境の構築という、コンピューター屋さん、ネットワーク屋さん的仕事になりました。

本社直轄開発プロジェクト室: (1990/7 – 1997/5)

某有名米国コンピューター企業への OEM として、ソニーがノートパソコンを製造することになり、その職場に異動したことで、ここから本当に「コンピューター系」の仕事になりました。この頃は主に製造用の自己診断ソフトを作っていましたので、しょっちゅう長野テクノロジーセンター(現 VAIO 株式会社)に出張していました。

プライベートでは1994年9月にタヒチで結婚しました。

Sony Electronics 赴任: (1997/6 – 2004/3)

ソニーも VAIO で PC ビジネスに参入することになり、U.S. VAIO の立ち上げのためにシリコンバレーに赴任しました。最初は技術企画として商品企画を担当したり、Configure To Order 用の製造用自己診断システムを開発したり、現地のソフトチームのマネージャーをやったりしました。

モバイルプロダクト開発部門: (2004/4 – 2006/3)

帰任すると、PC ではなく今度はモバイルデバイスということで、そのための新しいソフトウェアプラットフォームのエヴァンジェリストというお仕事をしました。

VAIO 事業本部  PCD 開発部: (2006/4 – 2010/9)

“PCD” というのは “Personal Communication Device” という意味で、まだ iPhone も Android もなかった時代に “mylo” というモバイルデバイスの商品開発をやりました。ちなみに “mylo” は “MY Life Online” という意味だそうです 🙂

クラウド&サービスアプリ開発運用部門: (2010/10 – 2015/5)

ソニーの各種クラウドサービス、クラウド利用デバイスなどで共用できるクラウドプラットフォームを開発するだけでなく、運用まで面倒をみる(最近流行りの DevOps)という部門ができたので、そちらに異動し、今度はクラウドプラットフォームのエヴァンジェリストになりました (^.^;)

結局、根が「ツール屋さん」なようで、エヴァンジェリストに必要な「情報提供」のためにももちろんですが、職場の情報共有のツールだったり、業務効率改善のためのツールだったり、そもそも自己診断ソフトも「製造用ツール」だったりして、留学から帰国した1988年9月以降、ずっとツールを作ってきた気がします。

そんなわけで、ソニー最後の仕事は、この部門の「ツールチーム」のリーダーという、「まんま、ベストマッチ」な仕事に落ち着きました (^.^;)

イデアクエスト:(2015/9 – 2017/4)

定年まであと数年に迫ったところでソニーを早期退職し、株式会社イデアクエストというところに転職しました。

社内 IT 担当と、浴室見守り装置の研究開発をやっていました。

エバ・ジャパン:(2017/5 -)

イデアクエストを退職し、不思議な縁でエバ・ジャパンという会社で働くことになりました。

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